先日、友達(わたしを含め三人で)と半年ぶりで飲みに行った。その時に、話題が政治になり、「どうして自民党は政権を維持できるのか」それについて議論になった。議論がどんな流れでそうなったかは忘れてしまったけれど、友達は
「人はそれぞれでいいんじゃ無い。その人にはその人の考えがあるんだから・・・・・。」と言った。
その時私はええっと思った。これ麻生大臣も言ってたよな。
この考え方が自民党を維持させているんだな。と直感した。
わたしは思わず「馬鹿それは違う。」と言ってしまった。
友達はちょっと怒ったみたいだった。友達は「馬鹿呼ばわりする事態、お前は間違ってるいる。」と反論した。そうか、馬鹿は駄目か・・・・・その後、、もう一人の友達が議論を止めた。
だが、しかし、今こうして、冷静になってみると、やはり、わたしの直感は正しいと思う。理由はこうだ・・・・・・・・・・
①「その人にはその人の考えがある。」と「その人にはその人の個性がある。だから人はそれぞれだ。」とは区別しなくてはならない。
たとえば、風呂の温度を考えよう。個人で入る風呂はその人の考えとその人好きな温度で入れば良い。人それぞれだ。個性に従って入れば良い。
②しかし、共同風呂はどうだ。その人の好みで温度を決めることは出来ない。人それぞれだからだ。どんな温度で決めても、誰かには不満だ。
だから、風呂の温度が何度が好みなのか話を聞いて決めなくてはならない。「その人にはその人の考えがある。」では、風呂の温度は決められないのだ。
そして、社会は共同風呂のようなものだ。
③それならどうする。力のある誰かがが「この温度にしよう。」と言ったら、絶対主義の温度になる。たくさんの人の意見を聞いて、一番多い意見の温度で決める。民主主義の温度だ。現在の日本は民主主義の国家だ。だけど、少数だった人はその温度では寒すぎるとか、熱すぎるという不満が残る。
④その現実を解消する方法は無いのか、「多数決だものしょうが無いよ。」と諦めるか、「この温度がいいという自分と同じ考えを持った人集め、他の人を説得しよう。」「力ずくで自分の好み温度にしよう。」等、解決の方法は人それぞれ違ってくる。
諦めたからと言っても納得出来ないし、同じ考えを持った人が多く集まって温度を変えても、今度は他の少数派が同じ事をする。暴力がまかり通ったら最悪だ。
⑤そこで、自民党は言う。「まあ、人それぞれだから、いろんな考えがあっていいんじゃ無いの。」麻生大臣ならしたり顔で言うだろう。
わたしはその言葉にむかっとくる。何故なら、彼らが風呂の温度を変える装置を持っているからだ。
あなたたちが好みの温度に設定して、「ああ、いい湯だ。」と言っていて、寒いと感じる人や、熱すぎると感じる人に向かって、そう言うのは頭にくる。そこで、わたしは友達に思わず「馬鹿!」って言ってしまった。
⑥「何言ってるんだ。どんな温度にしても不満があるじゃないか。だから、私達の考えで温度を設定して、多くの人がそれを支持しているんです。だからこの社会が安定しているんですよ。」と自民党は言う。じゃあ少数派は我慢して風呂に入るか、「冷たいけど考えようによってはちょうど良いかもしれない。」自分を多数派の意見に変えようとするか・・・・・
⑦わたしは考える。『この風呂の温度を決められない現実』それを打開する考えは無いのか?
そこで、やっぱり昔知ったヘーゲルの弁証法しか無いのかも知れない。と、わたしは思った。
Aの意見があってBの意見もある。そのままでは、どうにもならない。しかし、議論を戦わすことによりCの意見に達するかも知れない。この弁証法の可能性こそ打開の道であるとわたしは考える。
ちょっと前、日本にも政権交代があった。AからBに変わったのだ。しかし、国民はBのふがいなさにいらだち、またAに戻した。「ほら見なさい、私達の方がよっぽど良かった。」この言葉がイケない。何故なら、弁証法ならAとBを比べたのだから、よりよいCに変化しなくてはならなかったのだ。しかし、またAは自分らを何も変えず同じ事を繰り返す。
⑧じゃあどうしてそうなったか、Aの意見が多数派で「この風呂の温度が気持ちよく、できたらずうっとこの温度にしていたい。」と思っているからだ。安定維持だ。変化を受け入れないのだ。
弁証法であったら、多数派のAの意見も少数派のBの意見もおたがいを認め、比べ合い、議論を重ね、Cの考えを導き出す。それが少しでもおたがい納得しているなら、AはA’、BはB’へと変わる。それは以前のAとBではない。議論によってCの考えを導き出したAとBなのだ。それをまた繰り返し、A’’とB’’と変化のスパイラルを繰り返し、高まっていく。それが弁証法なのだ。その事がだいじなのにAは安定維持のためBを否定し、議論を避けているのだ。
⑨現在の日本の社会は議論が無い。ツイッターでつぶやくだけだ。国会は多数派が安定を維持するため議論を拒否している。だから、麻生大臣が「人には人のそれぞれの考えがあっていいんじゃ無いの。」と言う。おたがいを認めたような言い方で、議論を拒否する。国民は「まあ、ちょっと自分の好みと違うけれど、この風呂に入れないいわけでは無いから、いいかぁ」「人の意見を聞いて話し合うのも面倒だし、だいいち何も変わらないし・・・・・」
今の日本、いや世界に必要なのは、弁証法で議論が出来る空間かもしれない。
⑩今、現在、人々はネットでつながり始めた。しかし、ツイッターでは言いっぱなしで議論が無い。いがみ合いが残るだけだ。可能性があるならフェイスブックのほうがましだが・・・・・それでも、自分と同じ意見の人達が集まる。違う意見の人とは議論しない。逆の方向に行っているのだ。
重要なのは、ネット社会でも『おたがいを認め、意見を出し合い、冷静に議論して、少しでも納得する新しい考えを導き出す』そんな場だろう。
ネットには世界を変える可能性があるんだから、誰か弁証法で真面目に議論が出来るアプリを開発したら、この世界を良い方向に導く力になるかも知れない。自分にそんな力があったらなぁと思うのだ。