Takayoshi Anzai

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2025年です。

Category : 未分類 6月 11th, 2025

昨年末にテニスをやり過ぎて、ヒラメ筋を痛めた。ネットで調べるとヒラメ筋は大事な筋肉で、特にテニスなど急激な動きには対応する筋肉だ。

最初はちょっと右足に違和感があっただけだったので、もう一試合しても大丈夫だろうと思ったのが良くなかった。次の日、歩くとずきっと痛むようになっていた。歩くときにびっこをひかなければならなくなってしまった。しかし、ネットで調べ進めるとそのまま運動をしてるとアキレス腱までダメージが及ぶことが分かった。つまり、アキレス腱断絶までいかないで済んだと言うことだ。

ヒラメ筋は若い人は過度の練習、年寄りは加齢によって弱っていくので、私は両方だ。大事をとって一ヶ月はテニスをしないことにした。

一ヶ月間、テニスが出来ないとストレスが溜まるかなと思ったが、そんなことは無かった。むしろ、朝、寒いのにテニスの準備に水を用意したり、ウェアーの準備したりしないで、朝コーヒーをのんでなにもしないでのんびり出来る事がここと良かった。十年前だったら、テニスが出来ないことにイライラしてただろうに、私は年老いてしまったのか。

今年の恒例年賀状パロディです。2005 BBK

2024年です。

Category : 未分類 1月 8th, 2024

新年あけましておめでとうございます。
なんと、一年が過ぎるのが早いことか。2023年から一度もホームページが更新されていないことに気がついたのでした。
一年間何も無かったわけでは無く、色々なことがあったのでした。しかし、忙しすぎて更新されなかったのです。作品制作もスランプで、と言うよりボタニカルから又油絵と転向して作品制作中でなかなかシアガラなかったのでした。
原因は、今日は〇〇をしなくてはと思いつつ1日が終わる、そんな日々が多かった気がします。

今年は計画的に行かなくては。そして、毎日、少しでも前に進むようしていきたいですね。

今年のアルバムジャケットのパロディーです。

 

nenga 2024

copy from album jacket [Parsley,Sage,Rosemary and Thyme by Simon & Garfukel]

2023年です。

Category : 未分類 4月 4th, 2023

新年あけましておめでとうございます。

昨年の末、友達が69歳で亡くなった。死因は脳梗塞でした。大学時代からのとても良い友人で、彼が70歳になったら、二人で作品展を開く約束もしていた。だからとても残念で堪らない。葬儀は年末でご家族で密やかに行われた。私は、最後にご家族に無理を言って葬儀の前にお顔を見せてもらった。彼は眠っている間に亡くなったので、本当に穏やかな顔をしていた。「これでお別れだね。さようなら。」と声を出して、彼に声をかけた。
何かのドラマで主人公が友達の死について、『悲しみを悲しむことで最後のお別れが出来る。』と言う台詞があったけど、今ならそれが良く分かる。
こうして昨年の最後は悲しい出来事で締めくくられました。私自身はいつもと変わらない楽しい1年であっただけに、速くい逝ってしまった彼に申し訳なく思う。
彼は人の話をしっかり聞いて、励ましてくれ、それでいて自分のことはあまり語らない人でした。だからある意味、いつも気持ちに距離があり、私が熱く語りかけるだけで、彼は冷めていた。飲みに行ったときもそんな風だった。きっと人と深く関わることを避けていたんだと思う。反面、家族を大事にするひとだったのだろう。毎年、彼に年賀葉書を出していたが、彼からの年賀状がもう来ないのだと思うと、寂しさが身にしみてきます。

 

 

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copy from albumjacket 【Wendnesday Morning 3AM  by Simon and Girfunkle】

2022年ワールドカップを見て、自分が老いていることに気づかされた。

Category : 未分類 12月 2nd, 2022
サッカー日本代表がリーグ戦を突破しました。
 私は15歳からサッカー部に入り、メキシコオリンピックで銀メダルを取って以来、55年間日本のサッカーを応援してきました。その当時はドイツ、ブラジル、スペイン、アルゼンチン、フランス、世界のサッカー選手を見て、体格、瞬発力、技術…など見比べて劣っている日本が、ワールドカップに出るなんて無理無理、大変な道のりになると思ってました。試合を見ても期待してはがっかりして、55年間その連続でした。
 でも違った。日本は着実に実力を付けていたのです。今回、ドイツとスペインを負かしたことは、日本が世界に通じるサッカーチームであることを証明したのです。凄いです。他のスポーツにも言えるのだけど、世界のカリスマ選手はそりゃぁ個人技が素晴らしい、日本にはスーパースターが居ない、だから弱いんじゃないか?でも違ってた。日本にはそんな選手はいないけど、チームワーク、戦術、そして諦めない心、他の国には無い何かを持っているんだ、と、このワールドカップを見て思いました。
 なのに、なのに、昨日の夜「どうせスペインには負けるしなぁ、またコスタリカ戦みたいにがっかりするのはいやだなぁ。ビデオでいいや。」と録画のセットをして試合を見なかったのです。
 55年間、一喜一憂しながらも深夜放送でも応援していたのに、昨日はあきらめていたのです。そんな自分が恥ずかしい。若いときは明日に影響する時間帯でも見たし、日本が負けても、つぎはなんとかしてくれる、と希望を持って試合を見ていました。なのに、自分が人生の終わりに近づいてたせいなのか、日和ってしまった。深く反省しているのです。
『老いても、無くしてはいけないものがある。』
そう言っていたのに、いつの間にか何かに一生懸命になる情熱を失っていることに気づかされました。最近、これは無理だ。とか、昔ならやったのに…と思うことが多いい。体力なら致し方が無いのに、精神力まで失いつつあるのです。体力ならたとえばテニスをしていて、「もう無理」という限界が分かる。しかし、心の問題は意識しないと、いつのまにか若さを失ってしまうものでした。今回、ワールドカップをみていて、それに気づかされました。
日本代表チームはベスト16の壁にこれから挑みます。私は諦めないで、傷つくことを恐れず、しっかり応援していこうと思います。頑張れニッポン!
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私の父を語る

Category : 未分類 6月 6th, 2022

最近自分が人生の後半に入ったせいか、涙もろくなった。
孫と遊んでいても、「この子の成人式まで私は生きていられるんだろうか・・・・・」なんておもったり、日記を読み返してみたり、なんか寂しくなるときがある。それで、その日記を読み返していたら、私の父の葬式で喪主の挨拶の為に書いた私の原稿を見た。その原稿には私の父への熱い思いが込められていた。
父は85歳まで生きた。その5年前、母が80歳で亡くなり、晩年は小さな家で一人住まいだった。無口な人だったから友達も無く、葬儀はほとんど残された親戚と近所の知り合だけで行われた。母は下町育ちで人情に厚く、故に葬儀には多くの参列者が母親を見送ってくれたので、なおさら父の葬儀は寂しく思われた。その時に、私はこのまま父の人生を締めくくるのがいやで、抗うように、送る父への最後の言葉に、彼の人生について私が語ろうと思いついた。その時の原稿だ。
私はその原稿を読み返す度に涙が出てくる。どうしてかというと、自分が人生が終わりに近づいて私自身の人生を振り返る達日に、私の父親がいかに大変な思いをしてきたか、実感するからだ。そして私が平穏に生きてこられたのも、彼の存在が大きく影響していたことを思うからだ。
父の人生は波瀾万丈で、なんと五回も死ぬ思いをしている。だから、それを誰かに伝えたかった。名のある人や成功した人の波瀾万丈の物語では無いが、一人の男の人生として最後に語らねばならない、と私は強く思い書いた原稿だ。それを今回記録として残しおこうと思う、以下がその原稿である。

『本日はお忙しい中、父、,一(はじめ)の葬儀にご出席多々抱き誠にありがとうございました。

父の葬儀の挨拶として、これから私の父の人生をお話しさせていただきます。

父 一(はじめ)は大正12年(1923)4月15日、業平橋のたもと、小梅に産まれました。
しかし、その半年後、9月1日に関東大震災があり、祖父の市郎がまだ産まれて間もない一を背負って隅田川に逃げ、命拾いしたそうです。
その後も、小梅で暮らしながら昭和17年(1942)に太平洋戦争が始まり、父は昭和19年(1944)19歳で海軍に志願しました。
入隊前に、父は死を覚悟したのか、小学校から友達だった川口鶴長(とりなが)おじさんの妹である、杉子に結婚を申し込んだのです。前から友達のかわいい妹と思いがあり、プロポーズをして出兵前に式を挙げました。
生前に母杉子にどうして結婚したのかと聞くと「あの時は生きて帰ってくると思わなかったから結婚してあげたのよ。」と冗談めかしていつもそう答えてくれました。

父は入隊後巡洋艦五十鈴の機関砲兵を務め、南の海へ出兵しました。船に乗っていたときのことを尋ねるといつも言うのは

『機関砲をうったことがあるけれど、飛んでいる飛行機なんかになかなか当たるものじゃ無いね。だから、俺は一度も人を殺したことは無いんだよ。』それが父の自慢でした。子ども頃はそれがどうして自慢なのか分かりませんでしたが、父は戦争に行って複雑な思いがあったのだと私は察します。

そして昭和20年(1945)4月17日、終戦を迎える5ヶ月前、ジャワ島の西の海域で、輸送船の護衛に当たっていた巡洋艦五十鈴は、その日の明け方2隻のアメリカ海軍の潜水艦に魚雷を撃ち込まれ沈没しました。魚雷は幸いにも父の担当していた機関砲の反対側に当たり、直撃を免れたそうです。父はそのまま海へ投げ出され、沈没間際に浮遊物に捕まることができ、水死することは免れました。
そして、海に漂いながらも夕方になり、運良く遅れてきた輸送船が父たちを見つけ、命を救われたそうです。
もし、夜になってしまったら太平洋でいのちをおとす事になったでしょう。
その後、ジャワ島で待機することになりながらも、8月15日に終戦を迎え、その島で捕虜生活をすることになりました。

その間、2階も死にそうな目に遭いました。一つは虫垂炎にり麻酔なしで手術をしました。それはものすごい苦痛で失神したそうです。また、マラリアにかかり、高熱と震えで何日も苦しんだそうです。(その後遺症は20年後にでました。)
そしてようやく終戦をその島で終戦を迎えました。、終戦からすぐ帰れるわけでは無く、2年後帰国船がやってきて日本に帰れることになりました。
母は父が帰ってくるとは思わなかったようで、父と会ったときはうれしいより、びっくりして「どうしよう」と思ったのが本音だそうです。

その後、二人は小梅に仕立屋を営んでいた安斉家の祖父の実家で暮らし始めました。父も小さな証券会社にも勤められ、昭和23年7月に長男建雄が産まれ、昭和26年5月に私、孝悦が産まれました。。
しかし、その後、父の人生は決して平穏ではなく、太平洋戦争で青春を取られたからでしょう。その反動から父は賭けごとに熱中し、夜は賭け麻雀にあけくれ、株にも手を出し、多額の借金をかかえてしまいました。そしてなんと、穴埋めに会社の金を使い込んでしまいました。その借金のしり縫いとして、祖父が経営していた仕立て会社を手放し、全額返済しました。父は会社を首になり、安斉家は小梅の家を追われ、この寺島の小さな家に一家が引っ越ししてきたのは私が3歳頃の話です。
それからこの寺島の家で皆様にお世話になりながら、慎ましく生活を送りながら今日までに至ってきたわけです。50歳の頃には交通事故で大けがをしたこともありましたが、後遺症も無く元気を取り戻しました。
平成16年5月7日に母が亡くなり、晩年は八広の家で一人暮らしをしていました。
しかし、今月10月10日に結核の疑いで中村病院入院しました。その病院では抗生物質を投与されし続け、ストレスで胃に穴が開き多量の血を吐いてしまいました。
急遽、墨東病院に転院し、輸血をし続けました。一時は命を取り留めましたが、しかし、父は点滴の針をいやがり、チューブを自分で無意識に取り外してしまうとのことで、両手を拘束されることになりました。そして、二日後の深夜、父は拘束帯を自ら外してトイレに向かいましたが、その場で倒れ、その時に後頭部を打ち、脳内出血で10月23日午前10時26分、息を引き取りました。
このように父が、病院に入って2週間後にこの世を去ったことは父の一生を考えると、私はうなずける気がします。今まで何度も死ぬ目に遭ってきた父は自分が死ぬ前にベッドに拘束されることをとても嫌がり自由を求めたのでしょう。今はその父の気持ちが分かります。

生前、私は戦争の話を父と話すたびに、船が沈められ、太平洋の海に浮かんで死ぬか生きるかという時、その間いったい何を考えた?と聞くと、父はいつも「そんなこと忘れた。」と答えます。
今、私が思うに生死の間で思ったことは、それは忘れることなどありません。
きっと、父は広い海に浮かびながら「もし、自分がこれから命が助かるなら、小梅で待っているすぎ子と小さな家を建て、子どもを育て、貧しくとも慎ましく暮らして一生を終えよう。」とそう思ったんだろうと想像がつきます。そして、それは父の性格から察するとそんな父が考えた幸せは、あまり人に言うことではなかったようです。
そうだとしたら、父の一生は太平洋の真ん中で願った通りの人生を生きたといえるでしょう。

今こうして、お忙しい中この父のために多くの方がお越しくださり、父なら「そんなことしなくていいよ。」と言いいながらもきっと喜んでくれてることでしょう。
この後、父は母と会って「お父さん、一緒に踊ろうよ。」って言われ下手なステップで照れながらも二人仲良く踊ることでしょう。
そんな姿が私の目にかんできます。
本日は本当にありがとうございました。』

以上、葬儀で私がこの原稿を読んだ。その時、最後は嗚咽してしまい言葉に詰まったことを覚えている。今読んでも駄目だ、涙が出る。

父の人生と私のを比べると、なんと私の人生が平穏なのだろう。これを良しとしていなかった若い頃は、自分自身波瀾万丈な人生を目標に太く短く生きる事を思い描いていた。しかし、今は(まだ終わっていないが)そうは思わない。この年で分かったことは「平穏な人生こそ、幸せである。」と言うことだ。
戦争で人を殺すことも無く、また殺されることも無く、飢餓で死ぬことも無く、悪政によって自由を奪われることも無く、病気で苦しむことも無く、人に騙されることも無く、自分の子どもに先立たれることも無く・・・・・平温に生きてきた。この人生に何の文句を付けるのだ。私の父もきっと言うだろう。『それが一番』と。
私は18歳の時、学校を退学して生きる目標を失ってしまい、いわゆるニートだったことがある。その時は、精神的に駄目で勉強も働く気にもならないで図書館でブラブラする毎日を過ごしていた。毎日、母親と祖父に責められ、家にいられなかったからだ。学校を止めたことを責められ、ブラブラ何もしていないことを責められ、精神的にストレスを感じる毎日だった。が、ある日父親が話があるといって部屋に入ってきた。そして、「お前はこれから何をしたいんだ。」と聞いてきた。私は「分からない。」と答えた。すると父はこう言ったのだ。「いいよ、答えが見つかるまでお前は自由にしろ。」と・・・・・。その後、答えが出るまで4年を費やした。今、私は私を信じてくれた父に感謝している。
その時の父の気持ちは今となっては分からないが、ひょっとしたら、戦争によって翻弄された時代に生きた父は、自由に自分の生きかたを決められる時代に産まれた私がこれから何をするのかどう生きるのか見たかったのかもしれない…。

巡洋艦いすず

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

父の乗っていた巡洋艦「五十鈴」

何故、お洒落が大事なことなのかが分かった気がする。

Category : 未分類 3月 10th, 2022
 先日、友達の集まりがあり、一人が奥さん同伴で、遅れてやってきて、『うちの妻です。』と紹介してくれました。その時、「あれ、私と同じくらいの年なのに、凄い老けて見える。」と不謹慎にも思ってしまったのです
 でも、彼女はたたずまいが堂々として、はっきりと話すし、おそらく知性も高いのだろう。しかし、その会ったときの印象ですが、彼女は化粧していないし、白髪のショートカットで、服装も地味で印象はまるっきりお婆さんでした。人の奥さんにケチをつけるのは良くないのですが、年はそんなには離れていないと思うのに、色気がまるっきり感じられないのでした。想像するに、彼女は若くて活発な頃、70年の学生運動に参加をして、専攻は美術で絵を描いていて、自分の生きかたに迷いは無く、自分の生きかたを貫いて、化粧をするくらいなら、内面を磨いた方が良い、とそういう力強さを想像しました。
 そしてその時、はっと気づいたのです。。私は人と会うときは、まずは第一印象でその人の多くを判断をしていました。その第一印象の情報から、その人を憶測で性格まで判断していたのです。そして、私はその奥さんを会ったとき、女の人が化粧をしたり、オシャレをする意味がわかった気がします。
 私は今まで女性がお洒落や化粧をするのは、
①人との出会いで第一印象を良くするため。
②他者によく見られたい
そんな理由で化粧やお洒落をするのだと、そう単純に考えていました。
 だから、自分が他人にどう思われようが関係ない人はお洒落や化粧をしなくても言い訳で、自分の外面より内面を磨くことが大事で、人にどう思われようがどうでも良くなった人は素顔にまま、まっすぐ堂々と生きれば良いんだ。そう考えていました。
 そう単純に考えていたのですが、でもそうではないと、彼女を見てはっと気がついたのです。彼女は私にどう思われようがかまわないわけで、鹿野地がなんか寝間着のまま私の前にいるような、居心地の悪さをその時に感じたのでした。
 自分さえよければ他の人にどう思われても良い、その考えは他者を無視していることになるのではないでしょうか、実際、彼女と私の距離は大分離れていて、親近感がなかったのです。
 自分が行く集まりの人との出会で「他者に自分をよく見てもらえること」それはとても大事なことで、理由は
①自分が他者に対して好感度で見られることを意識することは、私と出会う人達を意識する(無視してない)事で、言い換えると彼らと仲良くなりたい努力をしたと言える。
②好感度が高ければ、その努力が出会う人を気持ちよくしていることになり、出会った人が、私と一緒にいて楽しく、もう一度会いたい、と思わせる魅力があったことになる。
 つまり、具体的には他者がその人を「お洒落だ、かっこいい、美しい、可愛い、セクシーだ……」と思えることは重要なことなのでだと気がついたのです。そう思えるからこそ、その人と一緒にいつまでもいたいと思えるし、また会いたいと思えるからです。逆に、化粧やお洒落をしない人は他人に興味が無い自分本位の人だといえるのではないでしょうか
 私の目の前にいる人が、化粧もお洒落もしないし、おしゃべりも楽しくなければ、その人と一緒にいたいとは思えないでしょうし、又会いたいとも思わない。他者を気遣う気持ちがあるからこそ、化粧やお洒落をする意義があると気がついたのです。
 魅力的な人とは、自分の内面も外面も磨き上げ、自分の考え持って堂々とした佇まいがあり、それでいて周りの人のことを気遣い、居心地を良くしてくれる人のことを言うのでしょう。会った人を気遣う心があってこそ、他者がその人を魅力をかんじるのでしょう。
 私ごとの話ですが、妻は良く食事中に食べ物の汁などが口の周りについていると、嫌な顔をして『ここ、ここ。』と自分の口元をさして、私に注意を促すことがあります。その時私は、『食事中にうるさいな、後で拭くんだからいいじゃない。』と思いながら、自分の口をナプキンで拭く事が多々ある。
 久しぶりに都心に出かけるときは、私の服装を見て『爺くさい。』と批判する。その時も、別に女の子にもてたい年なんかとっくに過ぎてるのに、お洒落なんて面倒と思う。
 しかし、そうではないのでした。前文で化粧やお洒落のする訳を考慮すると、恐らく妻は私に化粧やお洒落の大事さを私に訴えていたのでしょう。妻自身が私と食事する事、都心の繁華街を一緒に歩く事、それを楽しみたかったのでしょう。別に他者を意識しているのでは無く、魅力的な私になって欲しかったのでしょう。逆に言うと、魅力の無い私とは一緒に歩きたくなかったのでしょう。つまり、私がお洒落をしなくなったり、食べ方が汚くても良いと思うことは、目の前にいる妻の気持ちを無視していることになる訳で、妻の頭に離婚の二文字がよぎるかもしれないのです。
 妻は今でも働いています。だから、出かける前は化粧をしてお洒落をして出かけます。私は大変だなと思いつつも、私は未だに彼女を可愛いなと思ったり色気を感じたりすることがあります。ああ、それは妻の他者を意識した努力であり、私のためでもあった訳です。
 その事にようやっと気がついた次第です。
 さて、今日はどんな服を着ようかな?
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                                              Photo  KarataErika by music video

お目出度う2022年

Category : 未分類 1月 24th, 2022

IMG_1627今年もコロナで始まりましたね。本当にウイルスはすごいと思います。どうみても、生物では無いのだから、こんなにも弱った人を駆逐するのは、地球の自然のシステムとも言えるのでしょう。だから、人間があらがっても無くなるものでは無く、いつまでも有り、これが収まったとしても、又、人類が増えておかしな事になったら現れるのでしょう。

今年のジャケットパロディーはポールサイモンのStill Crazy After All Years  です。このアルバムはけだるい曲が多くて、日曜日の朝に良く聴きます。

この前YouTubeでポールサイモンとアートガーファンクル別々の動画で、歌を単独で歌ってたのを見ました。二人ともおじいさんになり、すごく老けて見えました。と言うことは自分もそうだと言うことです。青春時代に聴いて、歌ったりもしました。なんかそれも終わろうとしてます。そして、私自身も終わるのだなと寂しく思うのです。

ちなみにこのジャケットに合成した私の顔は、若い頃に口ひげを生やしていたのでそのまま使えました。口ひげを生やしていたときは、ぴんから兄弟に似ていました。

温泉に入りながら、欲望について考えた。

Category : 未分類 7月 19th, 2021

コロナによって、東京ではお酒が飲めないので、地方の温泉に夫婦で出かけた。風呂上がりに生ビールこれが我慢できなかったのだ。

 

ホテルに着いてから早速露天風呂に向かった。やはり温泉は良い。コロナだって吹っ飛ぶような気がした。

その時、あるお坊さんと一緒だった。お坊さんだとどうしてわかるか、というと、脱衣所ではサムイを着ていたし、下着が真っ白だったし、頭がスキンヘッドだったからだ。

そのお坊さんと思われる人は、面白いお風呂の入り方をしていた。その人は暖かい湯船に入らず、サウナ用の水風呂に入っては、身を清め(そう思う。)外に出ては合掌をして首をぐるぐる回して柔軟体操みたいなことをしていた訳だ。そのルーティンを繰り返し行った上、ようやっと湯船につかりどこかに消えた。
まさかこれが修行とは思えないが、もしそうだとしたらあまりにもぬるい修行だ。あれでなんか悟りがあったなら、私は毎日でもやる。
で、私はまねしてさとりがえられるかやってみた。
私も露天風呂で修行をかねて、ドライサウナで熱さに耐えながら(?)考えた。テーマは欲望についてだ。

最近、気になっているのが、若いときに雑誌で読んだアメリカンジョークだ。
ある健康な若者が医者に聞いた。
「僕は100歳まで生きることができると思いますか?」
医者が質問した。
「君はタバコと酒はやるの?」
若者が答えた。
「いいえ、一切やりません」
医者が質問した。
「君はギャンブルはやるの?」
若者が答えた。
「いいえ、一切やりません」
医者が質問した。
「君はバイクや車でスピードを出すのが好きですか?」
若者が答えた。
「いいえ、バイクや車には興味がありません」
医者が質問した。
「君は、女遊びが好きですか?」
若者が答えた。
「いいえ、そんなことはしません」
医者が言った。
「君、なんのために100歳まで生きるの?」

このジョーク笑うのにはふたつの視点がある。
つまり医者の言うとおりだ。楽しみをの無いつまらない人生でどうして100才まで生きるの。と笑うのか、人生はそれしか楽しみが無いと思っている医者を笑うのか。つまり、酒、ギャンブル、スピード、女、それが人生の楽しみと思うのか。

この二つの視点は重要で、どちらで笑うかで、その人の欲望についての考え方が変わるからだ。

私は若いとき、後者で笑った。つまり、医者の言うとおりではなく、人生は欲望をみたすことだけでは無く、他の生きる目標がある。しかし、若い頃に、酒、たばこ、ギャンブル、スピード、女、……。私は欲望だらけだった。
それに加え、すべてが満たされるわけではなく、いつもギラギラしていた私は、欲求不満そのものだった。だからその欲望をみたすことが頭から離れなかった。だからと言って、毎日それに明け暮れていたかというと、いや違う。
欲望だらけの私だが、自分の生きる目的もつかもうとしていた。その頃は、絵を描くとこが好きだったし、芸術から感銘を受けることが多かった。。そして、将来どんな仕事をしようか、と、真剣に考えていた。だから、そんな欲望に支配された青春ではいけない。と思っていたのだ。
毎日私はその欲望をどうやって抑えられるのか悩んでいた。ギラギラの欲望を抑えてこそ、本当の生きる目的が達成させられる。と、思ってた。なのに、私はこのジョークを医者の言うとおりだ。と思って笑ってしまう。考えている事と欲求とが入り乱れ、一生懸命デッサンしたり、一生懸命女子の後を追ったり、毎日の行動に統一性がなかったのだ。だから、すべての行動が食欲や性欲や支配欲、金銭欲、自己顕示欲……欲望だらけだった青年の私は、山で暮らして就業する仙人になれたら。

『仙人になれたら、欲望を超えたところに人生があり楽に生きられる事だろう。』そう思っていた。

しかし、今はそうは思わない。

今人生の末期に来て、段々と欲望が薄れてきた。若い頃のように、ギラギラしていない。満たされていることも多い、それは仙人に近づいてきた?ようだ。でも、本当だろうか?
やりたいけど、いつかやればいいや、欲しいけど我慢しよう、行きたいけど面倒だ…。それは私が欲望を無にできるようになった仙人に近づいたのだろうか。いや、違うこれはただ単に生きる生きるエネルギーが低下しているだけではないのか。だったらエネルギーのある若い頃に、それを満たそうとすることの何が悪い。

そんな疑問を灼熱地獄ドライサウナの中で熟考した。

その中で二つの命題が浮かんだ。
一つは欲望って何だろう?
もし、欲望が生きるエネルギーと関係しているなら、生きるエネルギーって何だろう?
欲望は人それぞれ違うが、無くしても良いものだろうか?欲望と活力との関係は何なのだろう。
生物学的に細胞レベルで考えたとき、細胞には欲望があるのだろうか?

【欲望】 不足を感じてこれを満たそうと強く望むこと。また、その心。

辞書にはそう書いてある。だから、生きているものには皆欲望を持っている。小さなバクテリアにも欲望はある。二つあってそれを満たさ無いと死んでしまう。
一つはエネルギーを摂取すること。
二つ目には繁殖すること。
人間例えると、食欲と性欲(?)だ。細胞分裂を性欲と呼んで良いのか分からないけど、意味は近い。
(人間では生きるために必要なものが、睡眠があるがそれは欲ではなく生理現象だから、今は考えない。)
で、バクテリアは『生きるためにその欲を満たそうとするのか。』
それとも『その行動が生きることなのだろうか』
最初の考えなら、欲は満たさないと生きていけないが、他に生きることに目的があるから欲を満たしている。
二番目なら、欲を満たすことが生きることと言える。
ほら、これは最初にあったジョークの二つの命題になる。
前者なら、欲望は人生そのもの築いていることになる。
後者なら、欲望の他に人生を築かなければならない。

結論はでない。まだ、その結論を出せるほど自分の頭は働かないし、究極、何故、宇宙があるのか、何故、地球があって生命があるのか、自分にはよく分かって無いからだ。
自分がどうしてここに居るのかわからない。
分かっていることは『自分が今どんどん欲を追求するパワーが無くなっていて、段々と死に向かっている。』ということだ。

 

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おめでとう御座います。2021

Category : 未分類 7月 19th, 2021

 

 

あけましておめでとう御座います。

コロナで明け暮れた、2020年が終わりましたが、新しい年もコロナで始まりました。

今年もよろしくお願いします。

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韓国のドラマは日本を超えた。

Category : 未分類 8月 8th, 2020
 Fujityaku
いわゆる韓流の始まりは17年も前の「冬のソナタ」だった。それは、日本の主婦層の特に昭和生まれの人達の心を動かす、恋愛ドラマの傑作だったのだろう。
2002年に日韓ワールドカップが行われ、2003年に「冬のソナタ」が放映された。
その二つの出来ごと、つまり日韓ワールドカップが若者の心に何かを残し、「冬のソナタ」が主婦層を動かした。それが、いかに日本と韓国の距離を縮めた事か、その以前の日本と韓国状態を考えると、すごい事が起きた事が分かる。
 余談だが、30年前に韓国に一人旅をした友人が、大変な思いをして帰ってきた。彼は「いかに韓国人達が日本人を憎んでいる」事を実感したと言った。
  多くの日本人は(私を含めて)日本より遅れている韓国の状態を見て、どこかで日本人は韓国を見下していた。戦前の人達は見下す事が当たり前であり、戦後の差別や民主主義を学んだ私たちでさえ、それが心のどこかに植え付けられていた。また、韓国人は日本を憎む歴史的構造があり、多くの人が日本を恨んでいた。日本は戦後を忘れようとしていたし、韓国は忘れまいとしていた。加害者があやまりもせず嫌なことを忘れようとしている。被害者が加害者を(日本人)を恨むのもあたりまえであった。
 私が韓国と日本の関係を知れば知るほど、日本が韓国を尊重し、韓国の人が日本を受け入れる日か来る、そんな日がくるには大変な歩み寄りと理解と時間が必要なのだろうと私は考えていた。
 だから、日韓ワールドカップ開催はすごかった。わだかまりはあったが、韓国と日本がスポーツを通して交流をしたのだ。「スポーツは国境を越えるのかも。」とみんなが予感した。
 そして、その交流後、韓国の文化である韓流ドラマが日本のTVに流れ主婦層が見始め、ヨン様に熱狂し、後のK-popが(私も好きだが)日本の若者に受け入られ始めた。
 この時期、韓国と日本の関係が変わり始めたのだ
 韓流ドラマの話に戻そう。
  私は韓国ドラマはいいぞと友達に勧められて、冬ソナを見た。おもしろいドラマだなとは思った。ペ。ヨンジュンもチエ・ジウも良かった。
しかし、その当時私は韓流ドラマにはまらなかった。。
 どうしてか、理由を考えた。それは
・リアリティが薄い
 主人公がすごい美人だったり、イケメンで有ったり、財閥だったり、軍人であったり、男の強さ、女の優しさ、日本と比べてしっかりと、リアリティを無視した存在感で描かれている。
 主人公も死んだと思わせておいて、生き返らせ、運命的出会いがあまりにも多いし、記憶喪失が頻繁に起こる。時代考証では仕方が無いことだが、悪い日本人が多すぎる。
・回想シーンが多い
 これは制作過程のドラマの長さや週2回の放映によるものらしく、70分以上の話では昔のシーンを差し込んで尺を採らざるを得ないらしい。水増しをしないと保たないのだ。
・画面がキラキラし過ぎている
 これもリアリティより俳優の美しさ、かっこよさを表現するために画面が明るい。恋愛での雪のシーンも多く、夜のシーンでも日本と違って顔を見せるため明るいのだ。
・表現が大げさ
 国民性の違いでしょうが無いが、やたらどなる、叫ぶ、泣く、わめくのには違和感を覚えた。
だから、あの時代、私は韓流ドラマにはまらなかった。
でも、今は違う。韓流ドラマはすごい。見始めたらやめられなくなったのだ。
やっと本題だが、
今現在、私は最近の韓国ドラマにはまっている。韓国のTVドラマは日本を超えたとも考えている。それを見てから日本のテレビドラマがつまらなくなった。それほど、今、韓流ドラマにはまっている。
見た動機は?
Net flexで「LOST」「ウォーキングデッド」をみていた私は、評判の良い、「愛の不時着」を最初に見た。面白かった。
あまりにも面白かったので、「イテェオンクラス」を見て、「アルハンブラ宮殿」、「賢い医者の生活」と立て続けて、全部で64話をなんと二ヶ月で見終えてしまったのだ。夜があけるまで妻と見てしまった日もあった。そのくらい見るのを止められなくなるほどはまってしまったのだ。
「愛の不時着」では、笑いと涙と人情があり、サスペンスがあり、社会問題があり、南北統一の問題まであった。
 今までの韓流ドラマのイメージで見た私だが、そのドラマは今までとは違っていた。
もちろん、今まで同様、主人公は美男美女だし、女性は優しく財閥で、男性はスーパーヒーローだ。画面はキラキラしているし、回想シーンも多く、ラブシーンでは雪が降る。お決まりの展開だ。
しかし、今回はそれが嫌ではなかった。いや、むしろすごいと思えたのだ。
 どうしてだろう?
その理由をまとめてみた。
・まず、スタッフの意気込みが日本よりすごいと感じた。
 日本では一話が50分程度で週一回の放映でドラマは大体10話で終わる。その上、ひどいときには5分後に二コマーシャルが流れ、Cmが私たちをイライラさせる。俳優もそれほど個性的ではなくなてきたし、脚本の内容が薄っぺらくなってきて、韓国と同じようにリアリティに欠け、医者、刑事、検察、金融、それらが交互に繰り返している。
 それに比べ韓国ドラマは一話が70分週2回の放映で16話を作成する。これはスタッフにとって相当厳しいし、外国ロケまですると制作費もかさみ、日本では映画でしかあり得ないものを、毎週、それをテレビに流し視聴者を引きつけにする事は、制作スタッフのバイタリティが無いと出来ない。
・脚本が素晴らしかった
 CMがうるさいと感じられ、最近ではTVはNHKしか見なくなってきたし。お金をは払ってNet flexにも加入し、アメリカTVドラマを見始めた。LOSTやWalkingDadを見て、すごいと思った。しかし、なにか暴力的で血なまぐさいのだ。視聴者の神経を逆なでるようなシーンも多く、勿論最後までハラハラドキドキさせるがショッキングな脚本で、怖いもの見たさ的欲求を満たすのには最適であった。
 しかし、ストレスが最後に堪る。見終えてため息が出る。幸せな気持ちには無いのだ。しかし韓国ドラマは違った。見終えた後、幸せな気持ちにさせられるのだ。
 それが、エンターテインメントの神髄だとしたら・・・・・・・・・・
「愛の不時着」では何度もハラハラドキドキしたし、笑い、泣き、人情があり、感動もあった。それは、いつものお決まりの展開とハッピーエンドなのに、最後には達成感と安堵感があった。
 今までの韓流と同じなのだが、何か違ったどうしてだろう?
 考えるにそこには韓国が抱える南北問題があったからだと思う。今までの北が悪く南が良いという単純な展開では無く、いつか信じて願えば北と南は統一できるだから、この二人には幸せになって欲しいという気持ちでハッピーエンドを迎えると、私たちは安堵し、そして、南北もいつかは統一できるという希望に視聴者にあたえている。ハッピーエンドがより安堵させるているのはその脚本家の意図が会ったからだと思う。
・出演者演技が心に残った。
もちろん、韓流の流れからそれは恋愛ドラマであり、男の主人公は背が高くかっこよく強く、出てくる悪役は徹底的に悪であり、最後はその悪を倒す痛快さがあり、女の方は美しく気高く優しく、普通だったら死ぬ場面も、生き返り、良く泣くし、怒鳴るし、わめくし、日本人よりオーバーな演技である。
 それでも、今回はそれが嫌で無かった。何の私の心境の変化なのだろう。
恋愛シーンでは美しく見せるためにスイスの景色を利用している事も、鼻につかず、しょうが無いよなこの方がいいもの、と私は納得した。
それを支えていたのが出演者の演技だ。韓国の国民性である日本人よりオーバーアクションも今回は全然気にならず、むしろハラハラドキドキのサスペンスにはぴったりだったし、人情表現も白々しくなく、何よりも北朝鮮の人達を悪く描いていないのだ。むしろ、北朝鮮がレトロな良い国に描かれ、私は好感が持てた。
 考えるに、リアリティが突拍子も無いのだが、少しずつ私たちがこうなって欲しいと思う願望に近づいてきたと言えるだろう。
 韓国ドラマのリアリティの無さを上手く使って、私たちがこうであったらという現実で期待する事を読み取って役者が演技しているのだ。
 だから演技が過剰である事が気にならず、私たちを笑わせ、泣かせ、考えさせる。それが日本の役者より・・・・・・・・・・
 なんだろう?なにしろ、いいのだ。私が年取ったせいか、韓国人がストレートに感情をあらわにする事が、爽快に見えるのだ。日本人がおとなしすぎるように感じる。現実に私たち日本人はあまり泣かないし、わめかないし、怒らないし、笑っても薄笑いだし、日々の感情を抑える。それが美徳だからだろう。その現実の反発ゆえ、韓国ドラマが好きになってしまったのかも知れない。
 そして、北朝鮮の人達が「愛の不時着」を見て心が動き、ひょっとして北と南の統一するような日が来る。そんな韓国ドラマのパワーを期待して、今日も続きをみたいと思う。