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私の父を語る

Category : 未分類 6月 6th, 2022

最近自分が人生の後半に入ったせいか、涙もろくなった。
孫と遊んでいても、「この子の成人式まで私は生きていられるんだろうか・・・・・」なんておもったり、日記を読み返してみたり、なんか寂しくなるときがある。それで、その日記を読み返していたら、私の父の葬式で喪主の挨拶の為に書いた私の原稿を見た。その原稿には私の父への熱い思いが込められていた。
父は85歳まで生きた。その5年前、母が80歳で亡くなり、晩年は小さな家で一人住まいだった。無口な人だったから友達も無く、葬儀はほとんど残された親戚と近所の知り合だけで行われた。母は下町育ちで人情に厚く、故に葬儀には多くの参列者が母親を見送ってくれたので、なおさら父の葬儀は寂しく思われた。その時に、私はこのまま父の人生を締めくくるのがいやで、抗うように、送る父への最後の言葉に、彼の人生について私が語ろうと思いついた。その時の原稿だ。
私はその原稿を読み返す度に涙が出てくる。どうしてかというと、自分が人生が終わりに近づいて私自身の人生を振り返る達日に、私の父親がいかに大変な思いをしてきたか、実感するからだ。そして私が平穏に生きてこられたのも、彼の存在が大きく影響していたことを思うからだ。
父の人生は波瀾万丈で、なんと五回も死ぬ思いをしている。だから、それを誰かに伝えたかった。名のある人や成功した人の波瀾万丈の物語では無いが、一人の男の人生として最後に語らねばならない、と私は強く思い書いた原稿だ。それを今回記録として残しおこうと思う、以下がその原稿である。

『本日はお忙しい中、父、,一(はじめ)の葬儀にご出席多々抱き誠にありがとうございました。

父の葬儀の挨拶として、これから私の父の人生をお話しさせていただきます。

父 一(はじめ)は大正12年(1923)4月15日、業平橋のたもと、小梅に産まれました。
しかし、その半年後、9月1日に関東大震災があり、祖父の市郎がまだ産まれて間もない一を背負って隅田川に逃げ、命拾いしたそうです。
その後も、小梅で暮らしながら昭和17年(1942)に太平洋戦争が始まり、父は昭和19年(1944)19歳で海軍に志願しました。
入隊前に、父は死を覚悟したのか、小学校から友達だった川口鶴長(とりなが)おじさんの妹である、杉子に結婚を申し込んだのです。前から友達のかわいい妹と思いがあり、プロポーズをして出兵前に式を挙げました。
生前に母杉子にどうして結婚したのかと聞くと「あの時は生きて帰ってくると思わなかったから結婚してあげたのよ。」と冗談めかしていつもそう答えてくれました。

父は入隊後巡洋艦五十鈴の機関砲兵を務め、南の海へ出兵しました。船に乗っていたときのことを尋ねるといつも言うのは

『機関砲をうったことがあるけれど、飛んでいる飛行機なんかになかなか当たるものじゃ無いね。だから、俺は一度も人を殺したことは無いんだよ。』それが父の自慢でした。子ども頃はそれがどうして自慢なのか分かりませんでしたが、父は戦争に行って複雑な思いがあったのだと私は察します。

そして昭和20年(1945)4月17日、終戦を迎える5ヶ月前、ジャワ島の西の海域で、輸送船の護衛に当たっていた巡洋艦五十鈴は、その日の明け方2隻のアメリカ海軍の潜水艦に魚雷を撃ち込まれ沈没しました。魚雷は幸いにも父の担当していた機関砲の反対側に当たり、直撃を免れたそうです。父はそのまま海へ投げ出され、沈没間際に浮遊物に捕まることができ、水死することは免れました。
そして、海に漂いながらも夕方になり、運良く遅れてきた輸送船が父たちを見つけ、命を救われたそうです。
もし、夜になってしまったら太平洋でいのちをおとす事になったでしょう。
その後、ジャワ島で待機することになりながらも、8月15日に終戦を迎え、その島で捕虜生活をすることになりました。

その間、2階も死にそうな目に遭いました。一つは虫垂炎にり麻酔なしで手術をしました。それはものすごい苦痛で失神したそうです。また、マラリアにかかり、高熱と震えで何日も苦しんだそうです。(その後遺症は20年後にでました。)
そしてようやく終戦をその島で終戦を迎えました。、終戦からすぐ帰れるわけでは無く、2年後帰国船がやってきて日本に帰れることになりました。
母は父が帰ってくるとは思わなかったようで、父と会ったときはうれしいより、びっくりして「どうしよう」と思ったのが本音だそうです。

その後、二人は小梅に仕立屋を営んでいた安斉家の祖父の実家で暮らし始めました。父も小さな証券会社にも勤められ、昭和23年7月に長男建雄が産まれ、昭和26年5月に私、孝悦が産まれました。。
しかし、その後、父の人生は決して平穏ではなく、太平洋戦争で青春を取られたからでしょう。その反動から父は賭けごとに熱中し、夜は賭け麻雀にあけくれ、株にも手を出し、多額の借金をかかえてしまいました。そしてなんと、穴埋めに会社の金を使い込んでしまいました。その借金のしり縫いとして、祖父が経営していた仕立て会社を手放し、全額返済しました。父は会社を首になり、安斉家は小梅の家を追われ、この寺島の小さな家に一家が引っ越ししてきたのは私が3歳頃の話です。
それからこの寺島の家で皆様にお世話になりながら、慎ましく生活を送りながら今日までに至ってきたわけです。50歳の頃には交通事故で大けがをしたこともありましたが、後遺症も無く元気を取り戻しました。
平成16年5月7日に母が亡くなり、晩年は八広の家で一人暮らしをしていました。
しかし、今月10月10日に結核の疑いで中村病院入院しました。その病院では抗生物質を投与されし続け、ストレスで胃に穴が開き多量の血を吐いてしまいました。
急遽、墨東病院に転院し、輸血をし続けました。一時は命を取り留めましたが、しかし、父は点滴の針をいやがり、チューブを自分で無意識に取り外してしまうとのことで、両手を拘束されることになりました。そして、二日後の深夜、父は拘束帯を自ら外してトイレに向かいましたが、その場で倒れ、その時に後頭部を打ち、脳内出血で10月23日午前10時26分、息を引き取りました。
このように父が、病院に入って2週間後にこの世を去ったことは父の一生を考えると、私はうなずける気がします。今まで何度も死ぬ目に遭ってきた父は自分が死ぬ前にベッドに拘束されることをとても嫌がり自由を求めたのでしょう。今はその父の気持ちが分かります。

生前、私は戦争の話を父と話すたびに、船が沈められ、太平洋の海に浮かんで死ぬか生きるかという時、その間いったい何を考えた?と聞くと、父はいつも「そんなこと忘れた。」と答えます。
今、私が思うに生死の間で思ったことは、それは忘れることなどありません。
きっと、父は広い海に浮かびながら「もし、自分がこれから命が助かるなら、小梅で待っているすぎ子と小さな家を建て、子どもを育て、貧しくとも慎ましく暮らして一生を終えよう。」とそう思ったんだろうと想像がつきます。そして、それは父の性格から察するとそんな父が考えた幸せは、あまり人に言うことではなかったようです。
そうだとしたら、父の一生は太平洋の真ん中で願った通りの人生を生きたといえるでしょう。

今こうして、お忙しい中この父のために多くの方がお越しくださり、父なら「そんなことしなくていいよ。」と言いいながらもきっと喜んでくれてることでしょう。
この後、父は母と会って「お父さん、一緒に踊ろうよ。」って言われ下手なステップで照れながらも二人仲良く踊ることでしょう。
そんな姿が私の目にかんできます。
本日は本当にありがとうございました。』

以上、葬儀で私がこの原稿を読んだ。その時、最後は嗚咽してしまい言葉に詰まったことを覚えている。今読んでも駄目だ、涙が出る。

父の人生と私のを比べると、なんと私の人生が平穏なのだろう。これを良しとしていなかった若い頃は、自分自身波瀾万丈な人生を目標に太く短く生きる事を思い描いていた。しかし、今は(まだ終わっていないが)そうは思わない。この年で分かったことは「平穏な人生こそ、幸せである。」と言うことだ。
戦争で人を殺すことも無く、また殺されることも無く、飢餓で死ぬことも無く、悪政によって自由を奪われることも無く、病気で苦しむことも無く、人に騙されることも無く、自分の子どもに先立たれることも無く・・・・・平温に生きてきた。この人生に何の文句を付けるのだ。私の父もきっと言うだろう。『それが一番』と。
私は18歳の時、学校を退学して生きる目標を失ってしまい、いわゆるニートだったことがある。その時は、精神的に駄目で勉強も働く気にもならないで図書館でブラブラする毎日を過ごしていた。毎日、母親と祖父に責められ、家にいられなかったからだ。学校を止めたことを責められ、ブラブラ何もしていないことを責められ、精神的にストレスを感じる毎日だった。が、ある日父親が話があるといって部屋に入ってきた。そして、「お前はこれから何をしたいんだ。」と聞いてきた。私は「分からない。」と答えた。すると父はこう言ったのだ。「いいよ、答えが見つかるまでお前は自由にしろ。」と・・・・・。その後、答えが出るまで4年を費やした。今、私は私を信じてくれた父に感謝している。
その時の父の気持ちは今となっては分からないが、ひょっとしたら、戦争によって翻弄された時代に生きた父は、自由に自分の生きかたを決められる時代に産まれた私がこれから何をするのかどう生きるのか見たかったのかもしれない…。

巡洋艦いすず

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

父の乗っていた巡洋艦「五十鈴」

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